2017年10月の総選挙の結果は、私たち日本国民にとって大変大きな意味を持つ結果となりました。多くの国民が安倍政権に対して批判的な意見を持っていたにもかかわらず、選挙の結果は政権与党が圧倒的な議席を獲得し、引き続き「余裕」をもって安倍首相が政権を担うことになったということです。なぜか。安倍首相が国会答弁で自分のことを「立法府の長」と言い間違えたことがありました。言うまでもなく総理大臣は「行政府の長」であり、立法府、つまり議会の長は衆参両院の議長です。であるにもかかわらず、安倍首相は頭のどこかで「立法府」も俺が動かしている、という自負心が芽生えていたのだろうと推察されます。それは、政権与党のトップが総理大臣になる、そうすると国家機関の配役は少なからずこの総理大臣の意向が働くことになる。2017年の流行語の「忖度」もいろんなところで働くことになるのでしょう。まさに「独裁政治」です。結果として国民は「いろいろ言っても変わらない」という感情から政治を遠くから傍観することに徹してしまい、本来の主権者である国民の任務を放棄してしまうことになるのではないのか。本来は国民の信託を得て国民の代表となった議員が国の在り方を議論するはずの国会は「無用の長物」と化してしまっているように国民は感じるのです。そして総理大臣は国民の監視を受けずに何でも好き勝手に政治を進めることができる社会システムを作り上げることに成功するのです。「選挙に行こう」総選挙の戦いが進む中で若者の声が街の中に響きました。この声は正に本質的な国民の責任を果たそうという呼びかけにほかなりません。安倍首相は国民が政治に無関心になるように様々な仕掛けを弄しています。「何を言っても変わらない」という諦めを国民の意識に定着させるために国会では質問に答えず、自ら野次を飛ばし、野党議員の臨時国会の召集要求も無視する。そして時間が来れば強行採決で法律を成立させていく。この事態をこのまま漫然と許すとすれば、憲法改悪をするまでもなく国民の幸福追求権も表現の自由や個人的人権の尊重も雲散霧消してしまいます。

諦めてはいけません。そして権力者に自分のすべてを委ねてもいけません。「そんなことはしていない、」と言われるかもしれませんが政治に対する「無関心」は諦めや白紙委任と同じことです。二〇一八年通常国会。まさに正念場です。憲法を変えるという政府与党が「革新」で守るという野党が「保守」、という印象操作も続くでしょう。事は変えるか変えないか、ということではなく、国民自身が自分たちの権限を滅失させようとする政治に対してどう向き合うのか、という問題です。諦めも無関心も自死行為です。

来る年2018年、春。たたかいのときです。